【 概 要 】−白井城の築城年代は不詳ですが南北朝時代、上野国守護代白井長尾家がこの地へ入ると居城として周辺地域の軍事的、政治的、経済的な拠点としました。白井長尾氏は関東管領である山内上杉家からの信任が厚かった事などから一大勢力圏を築き上げ、雙林寺の創建や学問所を開設するなど後に白井文化圏などとも言われました。戦国時代に入ると次第に勢力も衰え、脆弱な基盤となった上野国は上杉謙信や武田信玄、小田原北条氏といった大大名の勢力拡大の格好の的となり何度も白井城を巡り攻防戦が繰り広げられました。小田原の役が終わり関東へ徳川家康が領主になると白井城には本多康重が2万石で入り白井藩を立藩、短期間でその後は、井伊直孝・西尾忠永・本多紀貞と何度も藩主が変わり元和9年(1623)本多紀貞に嗣子がなく白井藩は廃藩、城も破棄されました。白井城は本丸背後が吾妻川で出来た断崖の要害の地で又、利根川とも合流する交通の要衝でした。本丸の北方には二の丸、三の丸と続きそれぞれが深い空掘りで分断され、さらに外側には出城的な存在の北廓、金毘羅廓が配されました。南東側にはささ郭、南郭、新郭が防衛ラインを築き、城下町(白井宿)全体を総廓で囲む構造になっていました。現在白井城跡は山林と農地になっていますが、郭や空掘り、土塁といった遺構がかなり明瞭に残り一部石垣も見られ、平成16年には本丸部分が渋川市指定史跡に指定されています。
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