【 概 要 】−三夜沢赤城神社は古代から信仰の対象となった赤城山を御神体とした神社で、山頂から略真南の中腹に位置し、三夜沢赤城神社と赤城荒山を結ぶ山中(標高877.9mの小峰)には「櫃石」と呼ばれる霊石があります。櫃石は直径4.7m、短径2.7m、高さ2.8m、周囲12.2mの自然石で櫃石を中心に5世紀後半から6世紀前半に制作されたと思われる滑石製模造品(玉や剣形の飾り)や手捏ね土器など祭祀で利用されたと思われる遺物が数多く発見されています。この事から赤城山が具体的に信仰されるようになったのは少なくとも古墳時代後期以前からと考えられます。大化元年(645)から大宝元年(701)に制定された律令制度により上毛野国が成立している事から、櫃石の祭祀時期と合致している事が判ります。当時は政教一致している事から上毛野国の行政と赤城山の祭祀は深く繋がりがあった事が推察されます。三夜沢赤城神社の境内は櫃石と極めて深い関係がある事からも、より具体的な祭祀場が必要となり参拝に容易な勢多郡粕川村大字室沢字御殿(元三夜沢)に境内を構える事になったとも考えられます。当然、三夜沢赤城神社が上毛野国一宮的存在だったと思われますが国造だった上毛野君の衰退と物部姓磯部氏の台頭により、物部姓磯部氏の祖神を祭った貫前神社が上回り一宮となり、三夜沢赤城神社は二宮に甘んじる結果となりました。さらに時代が下がるとより人々の生活の場に近い二宮赤城神社が創建され赤城山の山頂にも祠が設けられ信仰が広がりました。三夜沢赤城神社は東宮の本地仏である地蔵菩薩像の別当寺院である竜赤寺と西宮の本地仏である虚空蔵造と千手観音像の別当寺院である神光寺が境内を構え、東西2宮の体制が長く続けられましたが、明治時代の神仏分離により別当寺院は排され、1宮に合併して現在の形態となっています。
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