【 概 要 】−二宮赤城神社創建は垂仁天皇又は景行天皇の時代に勧請されたのが始まりと伝えられています。上野三山である赤城山、妙義山、榛名山は古くから霊山・神山として信仰の対象だった存在で、上野国の象徴的な存在である赤城山の山神である「赤城大明神」と水神である「赤沼大神」と朝廷の権力である豊城入彦命と融合させる事でより円滑に支配を固めていったと思われます。承和6年に制作された「続日本後期」では従五位下「三代実録」にもその都度冠位を賜わり「上野国交替実録帳」では正一位となり延長5年に編纂された延喜式神名帳では名神大社と記載され上野国では貫前神社に次ぐ二宮の格式があったとされます。これらの経緯と赤城山と当社との位置関係、地名、他の赤城神社里宮との関係、周囲には古墳や遺跡が多い、現在の本社とされる三夜沢赤城神社に神輿を往復させる御神幸という特殊神事が受け継がれている事から、当時は二宮赤城神社が本社だったとする説があります。その為、歴代領主や支配者から崇敬され鎌倉時代の建久5年には源頼朝が社殿を再建し社領100石が寄進され社運が隆盛しましが戦国時代の永禄年間小田原北条氏の兵火に見回られ社殿を始め、社宝、記録等が焼失し衰退、この間信仰を取り付けた三夜沢赤城神社が本社、又は本社の順ずる支持を得たと思われます。その後領主となった牧野氏や前橋藩主酒井氏、松平氏に庇護され再び再興しますが、前橋藩の藩庁が置かれた前橋城の北東の方角にある赤城山山頂付近に元宮赤城神社が鎮座していた為、鬼門の鎮護社として隆盛し本社を称するようになります。元宮赤城神社は二宮赤城神社の山宮との説がありますが司祭的には三夜沢との関係が深く結論には至っていないようです。二宮赤城神社は古くから神仏習合の形態をとっていましたが明治時代時代初頭に発令された神仏分離令の為、仏式が廃され神社として独立、境内には仁王門や鐘楼、宝塔、土塁や空掘など当時の遺構が見られます。
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