【 概 要 】−館林城の築城には伝説が残っていて天文元年(1532)、当時の大袋城主赤井照光が子供達に虐められた弧狐を助けると一人の老人が現れ新たに城を築く事を強くすすめます。翌日一匹の老狐が現れ尾を引きながら城の縄張りをして城の守護神になることを約束して姿を消したそうです。照光は吉兆と思い新城を築き尾曳城(後の館林城)と名付け、本丸から見て鬼門の方角に稲荷郭を設け尾曳稲荷神社を遷座し鬼門鎮守社としました。歴史資料的には文明3年(1471)に上杉軍が立林城(館林城)を攻略したとの記述があるので、それ以前から築城されていたと思われます。城郭は平城で城沼を外堀とする要害堅固の城で当時では珍しい総構えで広い城域に城下町を取り込み外側を高い土塁と堀で囲んでいたようです。永禄5年(1562)に上杉謙信により館林城が落城すると赤井氏は武蔵忍城に退き、謙信が死去すると上野国の上杉家の影響力が弱体化したことで武田家、小田原北条家と支配します。徳川家支配になると重臣である榊原康政が城主となり、以後も東国の抑えの城として幕府から重要視され徳川綱吉を筆頭に親藩や有力譜代大名が城主を歴任しています。館林城は明治維新後、廃城となり多くの建造物が破棄されましたが市街地にある平城にしては土塁などの遺構が比較的に残り近年土橋門や土塀、井戸などが復元され館林市指定史跡に指定されています。
|