四万温泉(中之条町・上毛三名泉・日向見薬師堂)

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【 概 要 】−四万温泉が何時頃から開かれたのかは判りませんが3つの開湯伝説が伝えられています。

1つは延暦年間(782〜806年)に坂上田村麻呂が蝦夷掃討の為に当地まで進軍し、四万温泉を発見し戦の疲れを癒したというものです。坂上田村麻呂は平安時代の武官で、延暦12年(793)に征東副使として東国に出立し、延暦16年(797)には桓武天皇から征夷大将軍に任じられています。陸奥守、鎮守将軍でもあった為、その期間は陸奥国府が置かれた多賀城(宮城県多賀城市)に赴任し、延暦21年(802)以降はさらに北上して胆沢城、延暦22年(803)には志波城を築城して版図を広げています。基本的に坂上田村麻呂は多賀城と京都、遠征先の陸奥国中央部(岩手県)を何度も往復したと考えられ、四万温泉まで来た可能性は低いのかも知れません。ただし、群馬県内には梨木温泉(群馬県桐生市黒保根町)や清水寺(群馬県高崎市)、臍石(群馬県渋川市)、赤城山と二荒山の神合戦伝説などの縁の土地が点在しています。

1つは永延3年(989)に源頼光四天王の1人碓井日向守貞光が越後国をから上野国に入った際に発見したと伝えられています。貞光は日頃から仏教に熱心で毎日読経を欠かすことが無く、この日も読経を行っていると不覚にも眠気が襲い熟睡してしまいました。すると霊夢に童子が出現し、日頃から仏教を信仰している事に感じ入り四万の病気に効く源泉が湧出る場所を教えましょうと語りその場所を指示しました。翌日目が覚めると、御告げ従いその場所にいってみると本当に霊泉を発見した事から、貞光は童子が自らの守り本尊である薬師如来の化身と悟り、湯治場を整備すると共に、一宇(日向見薬師堂)を設け薬師如来(自らの持仏とも)を安置したと伝えられられています。その後、開湯伝説に因み、堂宇は日向守貞光寺薬師瑠璃如来、源泉は「御夢想の湯」、地名は「四万」と呼ばれるようになったと伝えられています。

1つは当地の住民である若い夫婦に赤ん坊が授からず、1日も欠かさず子宝祈願を行っていると、突然白髪の仙人が現れ、子宝に功能がある源泉の場所と、温泉の守護仏である薬師如来(日向見薬師堂)を祭る事を告げ姿を消しました。夫婦は御告げに従いこの場所に辿り着くと本当に霊泉が湧き出ていた事から、7日7晩、入湯と薬師如来の祈願を行うと遂に赤ん坊を授かり、元気な女児を出産するに至りました。女児は薬師如来に因み「摩耶姫」という名前が与えられ、時が達と絶世の美女になりました。しかし、なかなか良縁に恵まれず不動明王に良縁祈願を行うと、この先の大きな滝があり、そこに行きなさいとの御告げがありました。摩耶姫はその大きな滝を訪れると、そこには、同じく不動明王に良縁祈願をしてこの地を訪ねるようにと御告げがあった逞しい男性が立っていました。2人は不動明王が引き合わせた良縁と悟り結婚し幸せになったと伝えられています。

開湯伝説の真偽、その後の経由は判りませんが、戦国時代に入ると広く知られるようになり、上杉憲政(関東管領)が入湯し、領主である真田昌幸の許可を得て永禄6年(1563)には山口地区で田村甚五郎氏(岩櫃城6代城主斉藤越前守基国の旧家臣)が宿屋を開いています。その後は元禄4年(1691)には関善兵衛が湯宿を開くなど次第に温泉街が整備拡張され江戸時代中期の宝暦年間(1751〜1764年)には山口地区に湯宿10軒、新湯地区に湯宿7軒になりましたが、江戸時代末期には衰微し、明治時代に近代交通網の整備に伴い再び活況を呈するようになりました。四万温泉は草津温泉(日本三名泉:群馬県草津町)伊香保温泉(群馬県渋川市)と共に上毛三名湯、峩々温泉(宮城県柴田郡川崎町前川峩々)、湯平温泉(大分県由布市湯布院町湯平)と共に日本三大胃腸病の湯に数えられています。

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